毎日幸せを感じるために

幸せをもっともっと感じるために、毎日の気づきを書いていきたいと思います。

また猫の話

こんにちは、あんです。


私は、おそらく7年後くらいに、現在の住まいを離れる予定です。引越し先は古い家で、現在建物の中の改修工事を行っています。壁を全て取り去ってやり直しをしているので、ほとんど新しい家を建てているような感覚。従って、色々と決断をすべき点が出てきます。壁はどこに作る、間取りはどう、バスルームは、トイレは、玄関は、などなど。


この家のことを考えるのはとても楽しいのですが、同時にいつも思うことがあります。私の猫のこと。


現在猫を一匹飼っています。名前はリリー。真っ黒のちっさなかわいい男の子の猫です。いわゆる雑種で、推定約5ヶ月くらいの子猫のときに公共機関からアダプトしました。今推定11歳。猫には多い甲状腺の病気で薬を与えてますが、その量は本当に爪の先くらい。小さな錠剤をさらに四分の位置に砕いて、毎朝与えています。ですので基本的には健康の部類です。


一緒に飼っていた女の子の猫が去年なくなりましたが、彼女は15歳くらいでした。おそらくリリーもそのくらいまで生きるかなと思います。あと四年ほどかと思います。


つまり、私が新しい家に引越しをする頃には、リリーはもういない可能性があるということ。


家のことで何か決めたり考えたりするとき、はじめはこのことを忘れています。そしてしばらく考えているときに、ハッと思い出します。


例えばキッチンのオーブンをどうしようかと考えます。料理は好きな方なので、ああでもないこうでもないと考え、ウェブでカタログを見てみたり、雑誌をめくってみたり。楽しい時間が過ぎていきます。そのうちに、思考がだんだん現実的になって、オーブンのドアが下の方にあると、うっかりリリーが入っちゃうかなとか、この位置にあればジャンプして登ることはないだろうとか、当然リリーがいる生活を想定して考えているわけです。そしてハッと気がつく、ああ、たぶんその家にはリリーはいないだろうな、と。悲しい、寂しい、と感じます。(それどころか、嫌だ〜!とまで感じます。)


"今"を精一杯生きよう、とよく聞くと思います。過去にも未来にもとらわれず、今この瞬間を大切にして、と。私もその考えに賛成です。今を精一杯生きる、感じるって大事だと思います。


でも現実に、将来のことを予測して立てなければいけない計画が、目の前にあります。数ヶ月後の旅行のための飛行機のチケットを買う場合、なんらかの事情で行けなくなる可能性はありますけど、普通はいけるものと仮定してチケットを買いますよね。(と私は思いますが違うでしょうか…)


7年後の転居というタイミングと、私の猫の年齢を考えたときに、私の中で、転居は実現してるであろう、そして、おそらくこの猫はもういないだろう、という仮定ができてしまっています。


生き物を飼うということは、飼い始めるタイミングや生き物の種類などにもよりますが、自分が生きている間に亡くなるだろうということを想定し、それを受け入れる心の準備をするんだと思います。実は、私には、去年前述のもう一匹の猫を亡くすまで、この心の準備がありませんでした。


今は、彼女の死で思い知りましたので、そういう心の準備はあるつもりですが、たまに、そのことに関してうまく折り合いが取れていない自分に気がつきます。心とか感情は、難しいものだなと思います。


今日もリリーはとてもいい子です。さっきも膝へ寄りかかって、膝に登って座りたいジェスチャーをしてました。目がキラキラして、毛もツヤツヤで、健康そうです。


今、この猫は生きて私と一緒にいるな、と、強く認識しようと思います。


あん

こんにちは。あんです。


本屋に行ってきました。本屋自体はよく行くのですが、ずいぶん長くフィクションの小説を手にとって見ていませんでした。


小説には、当たり前ですがフィクションの人間関係があり、フィクションの心と言葉のやり取りがあります。心を打たれ、何度も読み返した本はいいのですが、新しい本は、そこに描かれる人間関係、言葉のやり取り、主人公の心の変化を読んでいて、なんだか重いなあと感じるようになっており、また、フィクションだと当然出てくるなんらかのハプニング、事件があったり悲しいことがあったり、そういったことに私の気持ちが影響されるのが嫌、というか、怖いような気がしていました。


それで、何か物語が読みたいときは、そういった影響のない源氏物語などを読んでいました。(原文とその解説とか、関連文書などをです。今自分で書いてて笑ってしまいました。ちょっと暗いでしょうか。私には瞑想のようなものです。) あとは片付けの本とかお料理の本とか。


今日は、自然に単行本のコーナーに足が向い、気がつくと目の前に、ずいぶん若い頃からずっと好きで、新作が出たら必ず読んでいた小池真理子さんの本が積んであり、私には題名も知らない本が3冊。後ろを開けると初版が2013年。ああ、そんなに長く私は小説に心を閉ざしていたんだなあと、かなり驚きました。


その3冊を購入したことは言うまでもなく、源氏物語は遅ればせながら瀬戸内寂聴さんの源氏の単行本の2巻を買いました。(一巻の夕顔までは読んでいて、全部読みたいと心に決めていたので。)


美味しいものをちょっとずつ大事に食べるみたいに、大事に大事に読んでいくことを想像して、読む前からすでに幸せを感じています。


あん

ゆりと猫

こんにちは。あんです。


昨日、実はかなり心配をした猫の状態ついては、誤食の影響は幸運ながらなかった様子で、とてもほっとしています。実は、知る人ぞ知る、猫には怖い、ゆり中毒の心配をしていました。


彼がおそらく登らないと思われるチェストの上に、カサブランカを一週間ほど飾っていたのですが、昨日水切りのために移動をした際に、古くなった花が一輪落ち、落ちたことに私が気がつくほんの数分の間に、猫が花芯を口にしたようでした。(いつもは彼はそんなに素早くないのに…) 彼が吐き戻しをしたために誤食に気付きましたが、形状ごとそのまま出てましたので、おそらく口にしたすべてを吐き戻ししたと思います。


私は生きている花を身近に置くのが好きで、ゆりもよく飾ってました。半年ほど前に知人にゆりは危ないと注意されたのですが、その時点では恐ろしさの自覚があまりなく、飾る時には猫が登らないところへおく、ほどの注意にしていました。


今回実際に我が猫がゆりを口にしたことを目撃し、慌ててウェブで検索した結果、大変に深刻な中毒である事を知りました。ゆりそのものだけでなく、ゆりをいけてあった花瓶の水を(猫が)飲んでも中毒になるそうで、大変高い確率で死に至る怖い中毒です。(本当は誤食が分かった時点で獣医さんへ連れて行くべきだそうです。)


綺麗に咲き誇っていた残りのカサブランカ五輪ほどは、綺麗に咲いてくれたお礼と、その生命を止めることへの謝罪をしながら、コンポストにしました。(近所に差し上げるにしても、この近所猫だらけなんです…)


猫ご本人は、昨日は一日中私がかまってくれた(ときっと思っている)ためにご機嫌。今日も太陽の当たるところで夢を見てぴくぴくしたりしてご機嫌の様子です。


これからは、私の過失により彼ら(猫や植物)をむやみに傷つけることのないように、もっと気をつけたいと思います。特に植物については、せっかくうちに来た花は(私が自ら持ち込んだり、戴いたりして)、綺麗に咲いて終わって枯れてしまうまで、充分に楽しんでしっかり感謝したいものだと、改めて感じました。


今日はこの辺で。また明日。


あん