毎日幸せを感じるために

幸せをもっともっと感じるために、毎日の気づきを書いていきたいと思います。

おいてきた心

こんにちは、あんです。


注: 同時多発テロのことを少し書きます。不適当と思われる方は読まないでくださいますようお願いします。


ある方のブログを読んでいて、心に響く言い回しを見つけました。勝手に紹介はできないと思うのでぼかして書きますが、筆者の方の身に大変な出来事があってしばらく経った後の記事で、あの日においてきた心が追いついてきた、と表現していらっしゃいました。(実際の文章はもっと美しいのです、念の為。) その一文を読んだ瞬間、鳥肌が立つように感じ、私にも置きっ放しにしている心があると、そして、その心をちゃんと今の私の元へ連れてきてあげたいと思いました。


もう何年も前のことなのに何かがきっかけで折々に思い出される記憶が、2001年9月の米国同時多発テロの起こった朝です。私は西海岸に住んでいましたので物理的な被害はそれほどありませんでしたし、直接の知人で被害に遭われた方は現時点でも知っている限りはいません。ですが、あの朝の出来事は非常な衝撃でした。そうか、もう15年経つんですね…


二度寝を決め込んでベッドにいるところをかかってきた電話で起こされ、ニュースを付けろ付けろというのでテレビをつけ、寝ぼけ眼に、ツインタワーのひとつに飛行機が刺さっている映像が映りました。状況を理解しようとしている間に、2機目が飛んできて、しばらくしたらタワーのひとつが崩れ始めました。


状況は全くわからないまま、テレビの前に座り込んで、涙が流れて止まりませんでした。胸がつぶれるような苦しい感じがしていました。


前述したように私には直接にはほとんど影響はなかったので、おそらく通常の生活に戻るのにそれほど時間も要さず、自分の心へのインパクトには気づいていないか、気付かないようにしていたように思います。実際に被害に遭われた方やそのご家族に比べたら、私の気持ち"なんて"大したことない、おこがましい、従って、わざわざ私が語ることではない、位に思っていました。


ブログの"あの日においてきた心"の一文を読んだ時に、身震いするような感じで思ったのは、15年前にテレビの前で涙を流していた私の一部は、まだあのテレビの前で泣いているんだなということです。そして、その私(の一部)のことをずっと見ないように、忘れるように、若しくは理解しない(若しくは理解したくない)ようにしてきたのかなと思う。


2014年に愛猫を亡くしたことを以前記事にしましたが、この猫との最後の週末に感じていた胸が詰まるような感じが、丁度この15年前の気持ちに似ていることに気がつきました。ほんの最近まで、猫を亡くしたくらいでいつまでもうじうじしてだめじゃん、と自分を叱咤しており、大分この猫の存在は私の中で変わってきてはいますが、そもそもこの胸のつぶれる感じは、猫だけのことではないのかも、とも考えています。


テレビの前で泣いている私に、もう私を追いかけてきていいよ、私は追いかけてきてもらう準備できたし、何もかも大丈夫だからね、と、今これを書きながら話しかけているつもりです。


思いつくまま書いた内容で、とりとめのない文章ですが、最後まで読んでくださりありがとうございました。


今日も皆様にとって良い1日でありますように。

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