毎日幸せを感じるために

幸せをもっともっと感じるために、毎日の気づきを書いていきたいと思います。

今日のリリィ 〜 リリィといた事の意味

こんにちは、リリィです。


朝10時、やっと太陽がリリィの所定の場所に当たり始めました。



昨年に引き続き今年もまたカリフォルニアでは山火事が発生し、ほぼ鎮火はしたものの、サンフランシスコベイエリアの上空には煙を含んだ大気が鎮座している様子で、無防備に窓を開けることができません。それでもリリィが入院する前は、朝窓を開けてやることができるまで大気の状態が回復してましたが、彼の入院の翌日から、この辺りはまたスモークの含まれた空気に包まれるようになってしまっています。


ちなみに、私は時々リアリスティックの水彩画を描きますが、このパネルは絵ではなく、写真をプリントアウトしたものです。でもきっと、この写真はいつか絵になるんじゃないかなと思います。


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リリィが亡くなって3日目です。


私が平穏な感情と共にいる時には、リリィもそばにいるような気がすることがわかってきました。


リリィの姿がどこにもないのが寂しく、抱き上げる、抱きしめる、触れる肉体がもうないこと、もう絶対にここには戻ってこないことが、胸が張り裂けるくらい悲しかった。本当に、胸が裂けるかと思いました。肋骨のところが痛くて下着がつけられなかった。


でも、気がつきました。自分でもこれじゃいけないかなあと工夫して、ヨガをやってみたり、ちょっと笑える動画を見たりしてふっと気持ちが緩んだ時、私の周りの空気はリリィが存在していた時と同じ空気になっていた。


そうなんだなあ、と思いました。


何を思っても、何を思い出しても、何について後悔しても、リリィの肉体が存在していた時に起こったこと、私が目撃した様々な情景は、それが何であっても、最終的に私に悲しみをもたらすことが目的で起こったことではないのだ、ということが、段々と腑に落ちてきました。


最後、とても弱って小さな身体になって、熱くて目が覚めてベッドから出たくてもがき、床のタイルの上が冷たいことを知っているのでそこへ行きたくて一生懸命腕を動かし体を起こそうとし、支えてベッドから出してやったらボロボロの棒切れのような様子で床の上に横たわっているのを、その時目の前で見ているのも辛く、思い出しても可哀想で、悲しくて悲しくて、胸が締め付けられる。


でも、そのシーンさえも、そもそも私を悲しませるために仕組まれたものではないのだ、と。


彼は生きるために一生懸命だった、とか、本当のところは分かり得ませんけれど、私に看病させてくれた、介添えさせてくれた、あの経験をさせてくれた、そちらの方への感謝の気持ちに重きを置くようにするのが、今私が学ぶことなんだろう。


リリィは、私を幸せにするために存在したのか?


私は、彼からたくさんの喜びをいただいていると思っていました。彼にたくさん幸せにしてもらっていると思っていました。


でも、それは解釈によっては違うかもしれない。彼はまず、彼自身のために存在したのだろうから。それが間接的に私に喜びをもたらしたのは確か。


このブログのタイトルが「毎日幸せを感じるために」。でも私は、自分の幸せを感じるために猫を飼っていたのではなかった。


もちろんリリィと出会えてとても幸せでした。


ただ、なぜか知らないけれど、きっと何か大きなこの宇宙の計画かなにかがあって私はあの日この猫と出会い、一緒に歳を重ね、様々な経験をし、その猫は猫であるが故に私より寿命が短いので、私より先に肉体の役目を終えた。ただそれだけの事、そういうことなんだなあと思います。


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昨日、過去の今日のリリィシリーズを読み返していて、たくさんの思い出が詰まっていることに改めて気づきました。なんて大きな財産なんでしょう!ブログを書くのをサボっていた間も、写真だけはたくさん撮っていましたので、これからはこのブログの場所をお借りして、写真を元にしてリリィとの思い出・エピソードを綴っていこうかと思います。


最後まで読んでいただいてありがとうございました。
皆様の今日がこれまでで最上の1日でありますように。

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